でるとこでる

でないとこでない

インターンシップ

フェイスラインを取り戻したい。ナガです。

 

前回は、 今まさに問題の渦中にいる子ども達に再現性のある対処法を提案できないか考えてみるの後編でした。

on my mind - でるとこでる

 

結果として、いくつかの提案は用意出来そうだが、前提として私が子ども達と接点を持ち辛いという課題が浮き彫りになりました。

 

また、検討する中で「どのように悔しさをバネにしたのか」については次回持ち越しとしました。

 

今回は、その点を振り返っていこうと思います。

 

前回の振り返り

どのように悔しさをバネにしたのか、ダイジェスト版でお届けしました。

端的にいうと「世の中のそこら辺の人と自分に大きな能力差はない」ということに気付き、「それならどうして周りの人がやっていることを自分には出来ない、と思い込んでしまっているのか?」を考え、行動した結果「やってみたら意外と出来るやん。あれもこれも。」となったわけです。そりゃ失敗することもあるけど、トライするメリットの方が大きいと覚醒した。

 

外的刺激を契機に自分が自分に掛けていた呪縛が解け、少しの成功体験で無敵状態に突入した形です。

 

キーマン①恩師

専門学校時代のお話です。

 

家庭の問題がほぼ貧困だけになり、寝る間も惜しんでバイトしている以外は何とか普通の生活を取り戻しました。

 

そんな当時の私はコンプレックスの塊。主に学歴コンプレックスでした。

 

人生で初めて新卒採用の求人票を眺めてみたところ、大卒と専門卒では初任給が違う会社が大半なことを知りました。後に給与テーブルそのものが異なる会社も少なくないことを知りました。コンプレックスはここからスタートしています。

 

それからというもの、自分が行くことのできなかった大学で学ぶ人たちが、まるで凄まじく高度な人材のように見えてきました。無意識下で神格化し、自分は格下だと卑下していました。

 

完全に腰が引けてましたね。戦う前から負けてた。

 

IT関連の県内求人がとても少なかったことも私を追い込んでました。それならば県外に出てもっと広いフィールドで戦えばいいじゃないかと思われるかもしれません。

が、計算してみると例えば東京へ行くなら一往復の移動費と宿泊費で何万円も消えます。毎日を生きるために必死にバイトしている私にそんな余力はとてもとてもありません。

 

一度の移動なら何とかなったとしてもどの企業も面接が複数回あります。選考が進んでも開催日は先方から指定されます。複数企業まとめて受けたいところですが、やはり何日かは空く日が生まれます。その間の収入はゼロ。とても耐えられない。最近の就活のようにリモート面接があればよかったのですが、当時はそんなものゼロでした。

 

県内で就職するなら自分より格上の学生と限られた牌を奪い合う必要がある。だからと言って県外に打って出るために必要なお金はない。考えれば考えるほど詰みだと絶望し、何のために進学したのかと混乱さえし始めました。

 

そんな私を見かねた担任の先生が言ったこと。

 

「大卒も専門卒も新卒としてのパフォーマンスはマジで大差ない」

「だが新卒採用の場で大卒有利なのは間違いない」

「そうは言っても俺から見たお前はそこらの大卒より秀でてる部分があると思う。それが先方に伝われば何とかなる。」

 

とてもありがたい言葉だったんですが、失礼ながら気休めの慰めに聞こえてそれでもウジウジしてました。

 

「もういいから、分かった。とりあえず見てこい。」

 

県内某社のインターンシップに参加することになります。

 

キーマン②恋人

そうして2週間のインターンシップに参加することになりました。

参加者はおよそ20名。 約8割が県内の国立大学の大学生で、就活時期的に私より1歳年上でした。

インターンシップの構成は、前半1週間は座学。後半1週間は4チームに分かれてのグループワークです。

 

企業の所在地は車で向わないと辿り着けない場所。田舎過ぎて公共交通機関で行くなどという選択肢はありません。

 

最初の1週間は車を借りられましたが、後半の1週間は移動手段がない。どうしようかと悩みながらの参加です。

 

そんな中始まったインターンシップ

前半の1週間で、これまで神のように思っていた大学生の発言のレベルが同じなことに気が付き、「なーんだ人間じゃん」という感想を持ちました。

 

後半1週間は移動手段がなかったのでチームリーダーに同乗させてくれないかと打診します。快諾いただき移動手段ゲット。

 

いよいよグループワーク。ここから大学生の神ムーブが見られるのかとドキドキしていました。

結果、マジで終始同レベルでした。最初は専攻がどうとか研究室がどうとか、よく分からん話にただただビビってましたが、成果物作成プロセスの中で能力に差がないことを知りました。

 

最終的に他グループの発表もあったのですが、聞く限りどこもレベル感は一緒。完全に先生の言ったとおりだったな、と思いました。

 

学校に戻った後、レポートを書いていると横から話しかけてきた先生。

 

「な?言ったとおりだっただろ?」

 

この人は完全に信頼できると思いましたね。

ついでにお世話になった企業にはお礼状を送るものだと習い、切手を貼って投函します。

 

そういえばチームリーダーにもお礼しないとな。これが後の彼女です。

 

彼女には大学生生活というものを教えてもらいました。

 

リーダー気質な彼女とアシスト好きな私。

基本染まりたがりだから、どんどん相手の生活に染み出していきます。そういえば大学に潜入して卒論の手伝いもしました。建築分野だったけど自分全然戦力になるやんけ、とびっくりしたりもしました。

 

そしてこれがまた大変に素敵なご家庭で、よくお宅にお邪魔していました。みんなで晩ご飯を食べながら世界の広さや都会の素晴らしさを語ってくれました。また私の箸の持ち方を指導してくれたり、お店選びや家具のセンスなどなど人間生活を送る上でプラスになる時間を過ごさせてもらいました。

 

この環境が貧しさと高稼働で狂い切った心を整えてくれました。

 

そして思い至る

自分を過小評価し過ぎていた?

全くもってそうとしか思えなくなりました。

 

地頭のレベルから違っていると思っていたが、全然そんなことはなかった。学びを重ねているかどうかと所属だけの違いじゃないか。

 

それなら、総合力で勝つのは無理でも2,3個に絞って尖らせれば十分に太刀打ち出来るんじゃないか?

 

その仮説と叔父さんの「東京に出ろ」という言葉をもとに10ヵ年計画を立案します。これはまたいつかの機会で。

 

とにかく尖れば太刀打ちできるのかが気になりました。尖らせポイントの1つは間違いなくITだったので、資格取得に更に力を入れて何とか高度情報まで取得することができました。

 

改めて自分の強みを棚卸するとキツかった生活から得た長所も見えてきました。なんだ俺、まあまあ武器持ってるじゃないか。

 

この武器が世の中に通用するか試したかったもののお金がないから入社試験を受けに東京には行けない。それならばと地元まで採用活動に来てくれている東京の企業にエントリーして内定を獲得しました。

 

戦場

そして田舎者が都会に旅立ちます。

同期は半分以上が大卒。だがもう怯みません。

 

幸いなことに現場向きだったのか獅子奮迅の大活躍。何年も毎日4時間睡眠で稼働していたから、入社当初はたったの8時間労働でいい社会人ってマジで楽だと感動さえしていました。どんな残業でも深夜稼働でもかかってきやがれです。

 

バイトしすぎたことで仕事に共通する基礎力が身についてました。報連相とかね。更に本好きだからドキュメント読み込むのは得意だし、会話好きだからいつの間にかクライアントと話せるエンジニアになっていました。極め付けは酒好きだから発注元の社員さんと飲み会の日々でこれもウケが良かった。

 

1年経つ頃には入社時期が1,2年早い先輩を下から突いて仕事を巻き取るくらいには成長。なんとサブリーダーのポジションをもぎとります。

 

やってみりゃできるやん。あれもこれも。

 

それなのに給料が伴わないという点に怒り心頭でした。専門卒だから給料が低いということらしいです。どう考えてもおかしいやろがい!!

 

大いにたぎりつつも修行のためにしばらく鳴りを顰めて勤め、その後2社目3社目へと向かう大航海時代が幕を開けます。

 

悔しさをバネにする

学歴コンプレックスからの悔しさ、気が付いたら世の中から評価されないステータスになっていた悔しさ、生い立ちに基づく悔しさ、終わりなきスパイラル。拗らせに拗らせて闇とも言える悔しさの塊を勝手に生み出していました。(悔しさ)

 

先生の「見てこい」の一言でインターンシップへ。幻と戦っていたことに気付き、真っ暗闇に一筋の光。更に彼女とその家庭のお陰で摩耗していたメンタルを取り戻す。(冷静)

 

気力が戻ったので、やってやろうやないかいと資格勉強、就職活動、上京、そして鼻息荒く仕事。めっちゃ成果出た。(努力)

 

が、学歴を理由に評価を渋られる。納得できない。(怒り)

 

10ヵ年計画に沿って転職。(飛躍)

 

悔しさを冷静に分析して方針を定めて努力、それがよく分からん基準で認められず、怒りと悔しさを抱いて次のステージにジャンプ。

 

うん、確かにこれだった。

特に重要で難しいのは冷静になることですね。特に1サイクル目は悔しさが大きすぎて、他人の力を借りないと冷静になれなかった。

 

横展開可能か

私が悔しさを燃料にした手順は分かりました。

これを悔しさの最中にある人に適用できるか確認したいですね。

 

そんなに都合よく悔しさを抱いている人は見つからないでしょうし、次に私自身が悔しいと思うことがあれば検証して記事にしてみたいと思います。

 

4つの記事に渡って横道に逸れ深掘りしましたが、ここらで一旦は本線に戻りましょう。

 

以前の記事でどこから再開するかメモを取っていました。

そしてその次の回で今関わっているプロダクトについて少しだけ詳しく触れ、やりたいことができそうな部署とは一体何なのか書いていきましょう。

 

一気に現在の話に遷移しますね。お楽しみに。バイバイ。

on my mind

お花見できました。ナガです。

 

なぜか貧困が連鎖しなかった私たち兄妹の共通点をヒントにして、似たような環境にある子ども達に再現性のある提案を出来ないか。その前編が前回でした。今回は後編です。

すべての道は - でるとこでる

 

④諦めなかった

もし正解が分かればそれに向けて一心不乱に邁進すればいいだけの話。だが肝心の正解が分からないのが世の常。頑張って背伸びして正しそうなものを選んでも自分の目指すゴールには繋がっていないことがザラにある。

 

例えば、自分はこんな客観的評価を受ける位置にいるのかと気が付いた専門学生時代。資格を取れば何か変わるなんて確信があるわけもなく、ただそれしか出来ることが思い付かなかったから、あれこれ受験してよく頑張ったわけです。

 

また、転職の度に無数の選択肢が現れました。この会社に入社することが自分の目指すゴールに近づく選択になるのか、面接官に聞いた感じはそれらしいが本当にそうなのかは入社してみないと分からない。博打に近いながらも勇気を持って飛び込むしかなかったり。

 

もっと細かいものも含めるとこういう選択が無数にある。不確実な要素が多すぎる。正直なところ、取得しても期待通りの効果がなかった資格や読んでも役立たなかった書籍もあるし、うわこれ転職ミスったなと思うことだってあったわけです。蛇行に蛇行を重ねています。

 

だからと言って、もうこれでいいやとリタイアするとそれまで。だから失敗したら軌道修正してまた進むしかない。分からなくても進むしかない。「自分が考える正解」に辿り着くまで「とにかく進み続ける」ことが大切でめっちゃ大変。

 

失敗に慣れるというか、やってみて違ったら辞めればいいというか、サイコロを振り続けるというか。

 

私にこれが出来た理由は、悔しさを燃料に変換することに成功したからです。悔しさをバネにしたと言った方が分かりやすいか。

 

これは専門学校の恩師と当時の恋愛が深く関係しています。このエピソードだけで一話書けるので次回書きます。

 

端的にいうと「世の中のそこら辺の人と自分に大きな能力差はない」ということに気付き、「それならどうして周りの人がやっていることを自分には出来ない、と思い込んでしまっているのか?」を考え、行動した結果「やってみたら意外と出来るやん。あれもこれも。」となったわけです。そりゃ失敗することもあるけど、トライするメリットの方が大きいと覚醒した。

 

外的刺激を契機に自分が自分に掛けていた呪縛が解け、少しの成功体験で無敵状態に突入した形です。

 

これは私が発信したいことの核に近そう。そして再現性ある方法かも。是非とも深掘りしよう。

 

かつての私と同じ境遇の子どもがいたとして、頼りになる大人が寄り添ったとしても、諦めないマインドを醸成させるのはなかなか難しいと思います。

 

単に諦めないマインドとは違うか。七転八倒というか、諦めなければ別に失敗してもいいじゃんというか。

 

①〜③とは少し違うポイントが出てきた。よしよし。進展だ。

 

⑤地頭は悪くなかった

自分で言うのは少し恥ずかしいんですが、地頭は悪くなかったんです。

 

学校のテストがどうこうという面で言えば、そりゃ別に良くなかった。まあ悪くもなかった。

 

ここで言いたい地頭というのはそういうことじゃなくて、物事の本質を見極めてどうアプローチして結果を出すか、というようなことです。

 

で、これに深く関わったのは読書量と会話量だと確信しています。

 

私は本を読むのが大好きでした。

小学生の頃は何故か偉人の伝記を読みあさっていたし、中学生の頃は日本と中国の歴史小説が好きだったし、高校生の頃はミステリーとかそういう小説が好きだったように思います。小説ばかりですが今でも月に何冊かの本を読みます。

 

とにかく何の本でも良くって。様々な人の創作物に触れ続けたのがよかった。楽しく読もうとすれば作品に没入して、登場人物の気持ちになります。現実世界でも同じように、相手の立場で相手の性格で相手の状況なら今私に求められていることはコレだろう。と考えられるようになったのは本のお陰です。

 

そして会話量。

これに関しては高校時代の友人のT君に感謝です。彼は会話を楽しむことを大切にしていました。毎日湯船でネタを練り、翌日学校で披露してくれます。

 

これが本当に面白い。どうすれば人に面白いと思ってもらえるか、いくつかコツを教えてもらいました。

 

一番心に残っているのは、1つのネタを色々な人に話してブラッシュアップしていくんだ。ということでした。

 

私に面白い話が出来ているかは甚だ怪しいですが、お金がないゆえにアルバイトをするなどで色々な環境に知り合いが出来ていた私は彼の教えを守って、ネタのブラッシュアップに挑みました。

 

これを契機に人に笑ってもらう気持ちよさを覚えて、人と会話することそのものが好きになりました。延いては多様な属性を持つ人と会話する機会が増えて会話の経験値を稼ぐことができました。

 

結果を求められた時、結果を求めている人がいます。その相手と深く会話することが結果を残すための最短ルートです。自分から仕掛ける会話に慣れていることが非常に有利に働きました。

 

読書と会話は誰にでも始められることです。

しかも本は図書館で借りれば無料だし、会話なんていくらしても無料です。

 

かつての自分の境遇と同じ子どもがいたなら、絶対に勧めたいと思います。

 

⑥変化に強かった

小学校の転校は衝撃的でした。

5年間掛けて構築した交友関係のリセットです。いきなり知らない学校に通って、既に周囲はコミュニティを固め切っている環境なのだから自分だけ圧倒的な外様。

 

転校前は奥手で引っ込み思案でしたが、転校を機にオープンになりました。たくさん友達が出来て転校後の1年半は楽しく過ごせました。とても不安だったけれど何とかなりました。

 

上京にしても同じです。

上京前は都会に対する畏怖がありましたが、すぐに慣れるものです。同期と仲良くなり、あっという間に一人暮らしをエンジョイし始めます。とても不安だったけれど何とかなりました。

 

転職も同じです。

他社で通用するだろうかと心配でしたが、何度転職してもどうにかなっています。 とても不安だったけれど何とかなりました。

 

今も変化に対する不安は変わりませんが、大抵のことは何とかなると思っています。自分だけではなく他の人も同じだと思います。

 

中学生の頃、ある曲が流行っていました。

何万歩よりも距離のある一歩

「車輪の唄」 - BUMP OF CHICKEN

曲中では遠方に向かう恋人が電車に乗る一歩を指していますが、変化に向かうための一歩はいつも何万歩よりも距離のある一歩だと勝手に思ってます。

 

この一歩を何度踏み出したかです。

ちょっと意識高めに言うと「コンフォートゾーンから抜け出せるか」です。

 

何もしなければ現状維持でひとまず危険は少ない安心領域にステイできます。本人が望むならそれは悪いことではありません。しかしせめて貧困の連鎖から抜け出さないと、避けられない変化が訪れた際に苦しみや悲しみを繰り返す可能性が格段にアップしてしまいます。

 

繰り返す哀しみを照らす灯をかざせ

「命の別名」 - 中島みゆき

 

私の大好きなゲームに「宝石なんて見方を変えればただの石ころ」というニュアンスのセリフがあります。

 

不可避で理不尽な変化に直面したとしても、見方を変えれば通常は得難い、もしかすると何百万歩よりも距離のある貴重な一歩を踏み出す経験だと捉えることも出来るんじゃないか、と。

 

本当に耐え難いことを除いては、苦難に晒されてもほんのちょびっとは良い面もあるかもしれないね、と思ったりもするわけです。

 

同じ困難を経験していない第三者が分かったような口はきけませんが、マインドチェンジの可能性を探る提案はできるかもしれませんね。

 

⑦環境が最低限は整っていた

子どもは直接的な被害を被っていたとしても自身主導で環境改善は難しいので、基本的には難が去るのを待つか、逃げ出すことしかできません。

 

待ったとていつ終わるかわからないし、逃げ出すのだって茨の道です。

 

私は待ちました。親が離婚を決意したおかげで一番きつい時期からは何とか脱せました。

 

渦中にいる間、自分がキツイ時期を過ごしていたことに気付いていなかった、ということには驚きです。自分の中では当たり前だった。誰かに相談しようと考えたこともないし、身内含めて誰かに口外したこともありませんでした。当たり前のことだし家庭内のことを持ち出す必要性を感じていなかった。ただ知らず知らずにストレスが溜まりまくって、色々な歪みが生じたことには間違いありません。

 

高校生になって親が離婚して、初めてあれはおかしかったんだと気付きましたね。この弊害かは分からないんですが、私あんまり昔の記憶がないんですよね。普通に記憶力がないだけかもしれませんが笑

 

悲しい記憶の数ばかり

飽和の量より増えたなら

忘れるより他ないじゃありませんか

「傾斜」 - 中島みゆき

 

もし親の決断がなく、ずっと嵐が続いていたならもっと違う人生になっていたと思います。

 

家庭のことだから外部の関与は難しいでしょう。1つの家庭にしか属していないから、大変でも当たり前のこととして捉えており外部には相談しない。なかなか難しいですね。

 

子どもを想う親側にアプローチする方が現実的かもしれませんね。

 

まとめ

随分な長文になってしまいました。

前編も含めてまとめてみます。

 

「頼れる大人が寄り添えるといいよね」ということがありました。今回の振り返りにより、自分はそんな大人に支えられてここまできたことを改めて理解したため、必ずそんな大人になろうと決意が固まりました。

ただ子どもが属する主なコミュニティは家庭と学校で、基本的には守られるべき存在です。赤の他人の大人が直接接するハードルは非常に高いと言わざるを得ません。

 

渦中にいる子どもに対して、またはトラウマを抱えた子どもに対しても「マインドチェンジは有効かもしれない」ということがありました。

同様に直接接することは難しいですが、これについては具体どのようにやったのかを自身の経験を深掘りしてみる価値がありそうでした。

 

「本を読んだり会話したりが下地になる」ということもありましたね。本を読め、アウトプットしろとはよく聞きますが、どうしてこれが必要なのか咀嚼して伝えることには価値があるかもしれません。

 

なんだかんだ言っても土台になる家庭環境には外部からの関与は難しく出来るとしても親へのアプローチになるよね、ということがありました。ここは取り組みの上では一旦はスコープ外としておきたいですね。

 

改めて、見えてきたのは子どもは守られるべき存在だから、見ず知らずの大人が直接関係することが難しく、その点を加味すると参入障壁が非常に高いということです。この先、取り組みの方向性を見定めても常に付き纏う問題になりそうです。どうしようかしら。

 

とは言え、もし思い悩んでいる子どもに関係できたならチカラになるためのコンテンツとして揃えたい内容の輪郭も見えてきました。

 

焦る必要はないので、次回は悔しさをバネにするまでの流れを振り返ってみます。バイバイ。

すべての道は

桜が散る前に花見したい。ナガです。

 

前回は自分と妹達がなぜ貧困の連鎖を繋がなかったのか振り返ってみました。

人生のオーナーシップ - でるとこでる

 

その結果、私たち兄妹に次の7つの共通点が見つかりました。

①危機感があった

②助けを求めた

③助けてくれる人がいた

④諦めなかった

⑤地頭は悪くなかった

⑥変化に強かった

⑦環境が最低限は整っていた

 

そして前回の結論としては、「自分の人生に対してオーナーシップを発揮する」ことが重要としました。

 

今回は、今まさに貧困の渦中にいる子ども達に再現性のある対処法を提案できないか考えてみます。

 

①危機感はあるか?

何かしら「このままではやばい」と認識しているかどうかです。危機感がなければ現状に満足しているか、諦めているということになります。

 

まず現状に満足しているパターンですが、これは問題ありません。どんな状況であっても本人が満足ならそれでOKです。他人がどうこう言うのは間違っていると思います。

 

ただ現在の断面だけで判断してはいけません。このまま将来を迎えたらどうなるか、それを踏まえても満足なのかの確認が必要です。

経験が浅い子どもは自分でシミュレーションできないでしょうから、誰かしら寄り添ってあげる必要があります。

 

次に諦めているパターンです。諦めの状態から立ち直った経験がある私としては、是非とも大人が寄り添ってあげてほしいと思います。

 

目の前のことに精一杯で、心を閉ざしていることもあるでしょう。これを無理やりこじ開けるのではなく、押し付けがましく恩を売るでもなく、値踏みするでもなく。ただ近くに話せる大人がいることに価値があると考えます。世の中全部毒じゃないと思わせる存在が必要です。

 

諦めることを辞められたなら何かしらやりたいことが見えてくるはずです。やりたいことに辿り着くまでの道のりに気づいたなら、このままではいけないと危機感を持つでしょう。

 

②助けを求めたか?

「これが難しい」と言う人はとても多い印象です。大人にも多い。今一緒に仕事してる人もそうです。

 

プライドか責任感か、それぞれ理由はあるんでしょうが、助けを求められないのはかなりまずいです。

 

自分の中に問題を抱え込んでしまいます。いつか消化不良を起こした時に、どんどん問題が溜まっていきます。発生から時間が経つと余計に助けを求め辛くなります。そしていつかキャパオーバーして爆発します。

 

爆発すると周りに迷惑を掛けたり、叱られたり、呆れられたりして、また他人に相談することへの苦手意識を募らせるでしょう。

 

普段から助けを求めることが大切です。そんな負担になることできないなんて仰いますが、そもそも助けを求めることが相手の負担になるという発想が良くない。

 

どうしても助けを求められないという人。まずは積極的に誰かを助けてみるべきです。力になれた暁には"自己効力感"を得られるでしょう。

 

つまりあなたが誰かに助けを求める時、相手は自己効力感を手に入れるチャンスを得ます。迷惑にならないよう早めに(迷惑になる程寝かせてからはNG)、適切な相手を見極めて持ち込む相談なら、頼られる側は嬉しいものです。

 

というのは大人向けです。諦めた子どもに、助けを求める重要性を分かってもらうのは難しそうですね。

 

なぜ私は子どもの頃に助けを求めることができたのでしょう。そもそも諦めきっていた私は助けを求めたのでしょうか。 

 

よくよく考えると、頼れる大人達には日常会話の中で状況を逐一共有しており、助けを求めたという自覚はなく、自然と助けられていました。これだ。

 

ここでも頼れる大人が必要だというところに行き着きました。

 

③助けてくれる人はいるか?

助けを求めても、それに応えてくれる人がいなければ意味がありません。

 

まずは親、兄弟、親戚に頼れる人がいるか考えます。頼れる人というより頼りたいと思える人が正しいかもしれません。

 

ただし、個人的には思春期は身内に相談しづらかった記憶があります。

 

そうすると友人、先輩、先生、部活仲間、バイト仲間などが次点の候補でしょうか。

愚痴る先ではなく、助けを求める先です。これまでの候補に思い浮かぶ人が入れば幸運ですね。

 

どんなアラートを上げるかにもよりますが、自分の弱さを見せてもいいと思える相手にはなかなか出会えません。

もしかすると今の世の中、みんなSNSに向けて吐き出しているのかもしれませんね。

 

SNSの性質上、完全に自分の情報を晒すわけにもいかないため、これもまたなかなかに難しい選択かもしれません。

 

だが周りに頼りたいと思う人がいなければインターネットに活路を見出すのはありかもしれません。インターネットを通じて、直接会いに行ける頼りたいと思える人を探すのは大いにアリだと思います。

 

だが、諦めてる人が自発的にそんな前向きなアクションを取れるだろうか。

 

やはり日常の中に気にかけてくれる大人がいることがここでも重要になりそうです。

 

一旦ここまで

①〜③ではいずれも周りに頼れる大人がいるか、に行き着きました。これでは再現性のある対処法とは言えずただの運になりますね。

 

振り返れば振り返るほどに当時私に向き合ってくれた大人がいたことの大きさを感じます。

 

次回④〜⑦についてもうすこし考えてみましょう。バイバイ。

人生のオーナーシップ

夜間勤務してました。ナガです。

 

今が年内1番の繁忙期です。乗り切るぞ!

 

さて前回は、現在に至るまでの流れに触れながら「たぎる方向性」について書いてみました。過去の経験から社会人としてはお金を稼ぐことを優先してきたが、大学入学をきっかけに教育分野に興味が出て実際に転職した、ということです。

 

豊かな仲間 - でるとこでる

 

これから具体何をやっていくかを考える予定でしたが、前回記事を書く中でなぜ私や妹達には親の貧困が連鎖しなかったのか、という点が気になったので今回はそれを考えてみます。

 

兄妹構成とイベントと共通点

長男(私)、長女、次女の3人兄妹です。

それぞれ3歳離れており、私は今32歳です。妹は29歳、26歳です。

 

私が小5(11歳)の頃に一度転校を経験しています。

親が離婚したのは高1(16歳)の頃です。

 

親元を離れたタイミングは私21歳、長女18歳、次女20歳です。私と長女が家を出たタイミングは同じということですね。

 

私は東京就職、長女は地元就職に、次女は地元就職からの大阪就職です。

 

共通して言えることは、誰もストレートに大学進学していません。

 

長男(私)のケース

私は高校を卒業して、3年制の専門学校に進学しました。

 

高校3年の頃に、方向性を失っている(というか全く考えていない)のに進路どうするか決めないといけなくなった時、叔父さんからアドバイスを貰いました。

 

地元IT企業で役員をやっていた叔父さんの語る話は夢と希望に溢れており、悲観的なマイナス思考に凝り固まった私の世界にヒビを入れてくれました。

 

とにかく「こんな地方にいてはいけない。ITを齧って東京に打って出ろ。これからITは必ず儲かる。それがお前が逆転する方法だ。」ということでした。15年前にこのアドバイスは先見の明がありすぎる。

 

そんな頼れる大人①の叔父さんです。

従兄弟の家に泊まっていて、深夜に電話が鳴ると背広を羽織って会社に飛び出していく。そんなおじさんは本当にかっこよかった。この人の話なら信じてみようか、という気になった。

 

ということで入学した専門学校は地獄のようにレベルが低く、自分は今このランクに属しているのかという衝撃的現実を突きつけられました。

 

更に世間から見た専門学校の評価の低さに絶望すると共に、なんとかしないとほんまに終わると思いました。やれることは資格を取りまくることしかなく、一点集中でバリバリ取得していきました。

 

この頃は人生史上最高に狂ってて、毎日9:00-17:00まで学校からの21:00-06:00までバイトという超絶設計でした。お金なく、でも学ばないと終わる。キツかったーーー。

 

後述の妹の公務員学校の費用とか、免許取得費用、車の取得費、自分の上京費の捻出が必要で、まさに背水の陣でしたね。

 

その専門学校で頼れる大人②に出会いました。担任の先生です。

 

本当にありのまま、対等に付き合ってくれました。今思うと親類以外で腰を据えて正面からしっかり向き合ってくれたのは、先生が初だったかもしれません。

腐ることなく前を向き続けられたのは間違いなく先生のお陰でした。そしてご指導のおかげで無事、これ以上はないというほどスムーズに諸々の資格を取得でき、東京の上場企業に就職が決まることになります。

 

そこで頼れる大人③の初めての上司に出会うのですが、長くなってきたのでそれはまた別の機会に。

 

そんなこんなでITの世界に飛び込み、より良い待遇を目指して社会をバタフライで泳ぎ、今に至ります。

 

専門性があり、仕事に困らず、収入もわっしょいです!

 

私が何とかなったポイントは4点でしょうか。

①危機感がありアラートをあげた

②頼りになる大人と出会った

③アドバイスを聞き入れて努力した

④勇気を持って地元を飛び出した

 

長女のケース

長女は昔からしっかりものでした。

冒険はせず堅実な常識人。だが話好きでユニーク。

 

でも家族内では我を通すタイプ。冗談は通じるが筋の通っていないことは嫌い、みたいな。

 

長女は高校在学中に公務員学校に通って、卒業と同時に地方公務員になりました。

これはもう本当にすごいことだと思います。

 

いくら田舎の地元でも進学する人が大半です。そんな中進学を視野に入れず公務員試験だけを考えていたことがまずすごい。

そして実際にストレートで内定を勝ち取り、今年で勤続10年になります。尊敬しかない。

 

長女なりに家計を考えたりしての判断だったのでしょう。公務員学校に通った期間も短かったように思います。

 

私がバイトからあがって早朝帰宅すると、勉強に疲れてそのままダイニングテーブルで寝ていたことが度々ありました。

 

おそらく高校2年の頃に進路を決めたのではないかと思います。そこからしばらく独学で勉強していたはずです。

 

そうすると高1か高2の頃に何らかの進路を決めるイベントがあったはず。これが何かはGWに地元に帰った時に確認してこようと思います。

 

私の地元のような最果ての地方では、公務員は最強の仕事です。まず食いっぱぐれない。そして誰しも納得のステータス。ボーナスが出ないことが当たり前の環境の中、そんなことはありえないし、毎年給料が上がっていく。そりゃそれなりの辛さはあるものの周囲羨望の職なのです。

 

長女にも諸々の危機感があったと思います。具体的には不明ですが、進路を決める意思決定の瞬間があったから公務員を目指しました。そして確実に努力をしていました。

 

次女のケース

次女は天真爛漫でお調子者。いつもニコニコしていて人生を楽しむことを重要視しています。

家の中でも外でもムードメーカーな自由人です。

 

次女は高校卒業後に短大に通って歯科衛生士の資格を取得。これまた食いっぱぐれない方向に進みました。

 

当初は地元で働いていたものの、2回目の転職で大阪に出ました。

 

理由は3つ言っていたように思います。

①人間関係

②待遇

③地元楽しくない

 

まず歯科衛生士になった理由ですが、これまた聞いていないのですね。絶対に高校での進路決定のタイミングで何かあったんでしょうが、また次に会ったタイミングで聞いてみます。

 

転職の契機ですが、最初の就職先を数ヶ月で辞めています。超絶ブラックだったとかで、体調不良で辞めていました。

 

その次の職場ではそれなりの期間勤めたようですが、会うたびに大阪に行くか、東京に行くかと相談されていました。

 

諸々の人と相談する中で大阪に行くことを決定したとのこと。そういえばこの時の費用も一時的に私が負担しました。振り返ると何だかんだ、妹の重要な転換期に支援できていたみたいで嬉しい。

 

大阪に出て1年経ちますが、本当に職場が気に入ってるようで、働きやすく収入にも満足していて毎日楽しいとのことでした。よかった!

 

この前大阪に会いに行ったらモンクレールのダウン着てました。儲かってるやんけ!!

独占資格で仕事が溢れており、どこに行っても働ける素晴らしい選択をしたのではないでしょうか。

 

次女は、歯科衛生士を目指した時点で危機感があったかは不明ですが、最初のブラック職場で確実に危機感を持ったと思います。そして県外に飛び出す意思決定をした際には相談に乗ってくれるたくさんの人がいたと聞きます。勇気を持って地元を飛び出し、知り合いがほとんどいない土地に移りました。

 

オールを握ってる

妹に直接話を聞けていないので、真偽の程は如何にという部分はありますが、私からみた妹たちをざっくり書いてみました。

 

一言で言うと「自分の人生に対するオーナーシップを発揮できていた」が共通点になるかと思います。

 

本当はもっとたくさんあるでしょうが、一段細かく噛み砕いたものを残しておきます。きっと何か一つでも欠けると今はなかったと思います。

 

①危機感があった

お金がないとどんなことになるか経験していたので、食いっぱぐれない職を目指した。意思決定したタイミングでは人生の最悪期を抜けているor最中の場合は頼れる大人に相談できている状況であった。最悪期に戻りたくない、抜け出したいという反骨精神を持っていた。

 

②助けを求めた

進む方向性は変えず、また進むことそのものは継続して、お金の問題など自分ではどうしようもないまずい状態に陥った時に諦めずに周りに助けを求めた。

 

③助けてくれる人がいた

親戚、家族、友達、恩師などどこかしらに手を差し伸べてくれる人がいた。

 

④諦めなかった

実現するまで努力を続けられた。理想を描いて納得いくまで前進できた。

 

⑤地頭は悪くなかった

多分ですが、幸運なことに私たち兄妹はきちんとした環境で生まれ育っていればそれなりの結果を残せたであろう地頭で生まれていました。

 

⑥変化に強かった

本文ではあまり触れませんでしたが、転校(友人関係のリセット)と親の離婚(思春期の苗字変更)により本人の意思とは関係ないところで強烈な変化を強いられました。裏を返せば、変化に耐性があったということです。

 

⑦環境が最低限は整っていた

努力する前提となる最低限の環境は整っていました。例えば両親不仲が継続していれば破綻していた。

 

中島みゆき先生の歌で締めたいと思います。

 

その船を漕いでゆけ

おまえの手で漕いでゆけ

「宙船」 - 中島みゆき

 

次回は、これらが貧困の連鎖を断ち切るヒントになるか考えてみたいと思います。バイバイ。

豊かな仲間

今日は風の日ですね。ナガです。

 

前回の記事ではたぎりにたぎりましたね。

とてつもない悔しさもあったけれど、頼れる大人に触れて何とか今があるということでした。

ただ生まれただけ - でるとこでる

 

XでみなさんからコメントやDMいただきまして、嬉しい限りです!これからもどんどん頼みます!!

 

そして今日はニュースがあります!!

が、それは最後に温存するとして、まずは前回の続きから。

 

面舵いっぱーーーい!

方向性は大体決めていて。

 

というのも、私は2023年の上旬に転職しています。

 

それまで10年間ほとんどがむしゃらにIT x 金融で戦ってました。貧乏だったからこそ貧乏が怖くて、とにかくお金を稼げるようにと3回の転職を経験しました。紆余曲折ありながらも全てキャリアアップと呼べる転職でそれなりの待遇を得、ある程度の満足感を持っていました。

 

その私が、まったく畑違いである教育業界の門戸を叩いたのです。(と言ってもIT x 教育ですが)

それにしても実に4回目の転職です。

 

これは私にとってとても大きな決断でした。

このままIT x 金融を続ければ一生食いっぱぐれないし、もっともっとお金を稼げます。

 

何が私をそうさせたのでしょうか?

 

転轍機

...大学です。

 

コロナ禍が世の中を騒がせ始めた頃、通信制の大学に入学していました。

 

頼れる大人と出会って覚醒したとはいえ、私の最終学歴は専門学校になっていました。

大学卒業していないことにコンプレックスがあったので、ええい、この機会に挽回してしまえ、という運びです。

 

この大学がまた非常に素晴らしく、私にたくさんの刺激を与えました。そこで知り合った仲間との交流は、世の中捨てたもんじゃないと思わせてくれました。

 

みんなそれぞれのフィールドで一生懸命で、何より誰かのために生きていました。それがとても豊かな生き方に見えました。

 

一方の私は、ずっと自分のために生きてました。

負の経験を武器に変換して、とにかく過去を忘れるように前へ前へと進んできました。

これもまた私にとって必要な時間だったと振り返ります。後悔ありません。

 

ただみんなのかっこいい生き様が、先生方の様々な講義が、次々と私に問い掛けてきます。

 

「それでお前は何をやりたいんだっけ?」

 

過去の自分を救う

そうして転職することになります。

 

話せば長くなりますが、「貧困の連鎖」という言葉があります。

 

これがもう本当に気に入らなかった。

これこそが「マイナススタートの子ども」を生み出している理由に違いないと考えていたからです。

 

あれでもよく考えたら私も妹2人も貧困の出ですが、ぶっちゃけまったく貧困じゃないです。全然連鎖してないやんけ。なんで?次回のネタにしよう。

 

とにかく社会では貧困は連鎖するらしいです。貧困の親に育てられると子も貧困になる。このループから脱せない、ということのようです。

 

はあ!?ですよね。

そんなもん、気がついたら困窮してた当事者からしたらまったく許容できない。

 

で、それに対する有効打が教育である。ということが言われてるみたいなんですね。

 

まあ振り返ると思い当たるところあり、そんならそこに飛び込んでじっくり考えさせてもらおうやないかい。という経緯で今があります。

 

私はITで生きていたので、それが通用する部署に配属させていただきました。

 

1年やってきて

入社面接ではそれはそれはたぎりちらかしてました。

 

「世の中のこういうところが納得できなくって、だから教育に絡んでみたいんですわ」

 

みたいな。門外漢で色々とよく分かってなくってでもやる気はすごい、というパッションだけの面接。それで受け入れてくれた弊社、心が海。

 

ほんで、1年やってきた感想です。

プロダクト開発系の部署じゃやりたいことできんかも。

 

自分の得意な分野で貢献できるから仕事は卒なくこなせるんだけど、これなら金融やってる時とそんな変わらんくね!?

 

もっとこう、ガッと前線に躍り出て大たぎりしないとあの時の自分にはリーチできない。

 

Will

ここからがニュースです。

 

今所属している会社の評価制度では、これよろしくとお願いされた仕事(ミッション)がありまして、それを如何にこなしたかで諸々評価が決まります。かなり一般的なものだと思います。

 

他に何が得意なのかを述べるセクションと、何がやりたいのかを述べるセクションがあります。

 

得意なことや、やりたいことやったほうがパフォーマンス発揮できるよな?という会社からのメッセージと捉えています。

 

特筆すべきことは、やりたいことを語らせてもらえることです。これは仕事外でも何でもOKで評価には影響しません。

 

で、私は入社時に大たぎりしてたから、このやりたいこと欄にがっつりやりたいこと書いておいたんです。

 

そしてまさに今日、上司と評価シートについて語る時間があったんですが、「ナガさんは弊社の中でもたぎってる方だけど、ぶっちゃけ今の仕事内容で満足?」的なことを聞いてくれたんです。

 

え?このブログ読んでる???

 

と思いました。会議枠の最後の方だったから次回持ち越しになったんですが、どうやら気にしてくれてる様子。

 

ということで、空き時間にセコセコと「こういうことやりたいんじゃパワポ」を作ってます。

 

やりたいことをできそうな部署を事前に見つけていたので、そちらのマネージャーに突撃しようかと思ってたところだった。あぶない。いやちょうどよかった。

 

なぜ私たちは貧困じゃないのか

書いていて、ど貧困家庭で育ったのになぜ私たち兄妹が貧困じゃないのか、連鎖してないのかについて気になりました。

 

私は、自分は運良く頼れる大人と知り合ったからだと思っていたのですが、妹達はどうしてなんでしょう。同じなのかな。とても気になる。

 

一度脇道に逸れますが、次回はそこを考えてみます。

 

そしてその次の回で今関わっているプロダクトについて少しだけ詳しく触れ、やりたいことができそうな部署とは一体何なのか書いていきましょう。

 

いやー、考えを文字にすると発見があっていいね。バイバイ。

ただ生まれただけ

今週末は夜勤のナガです。

 

前回は、これまでに経験しためちゃくちゃ悔しかった思い出を掘り起こし、それで大たぎりできるんじゃなかろうか!たぎってる時まさにエンジンが火を吹いてる状態じゃないだろうか!?という内容でした。

たぎり - でるとこでる

 

今回は、まずその思い出が何なのか、そして自分のエンジンとして機能するのかを確認していきたいと思います。

 

人生を通して一番悔しいこと

みなさんパッと思いつきますかね?

悔しいことはたくさん思いつくけど、一番となるとこれだと断定するのは簡単ではないでしょう。

 

でも私は思いつきます。

 

「生まれ」です。

 

次の3点を満たしているところがポイントになります。

①自分でコントロール不可

②人生の難易度に直結する

③人格形成に作用する

 

誤解なきように補足すると、私は地元は好きだし、家族も好きだし、自分を取り巻いた環境も好きです。今は。

 

結果論で、今は渦中から脱しているからそう言えます。当時は本当にキツかった。希望も何もあったもんじゃなかった。

 

繰り返し脳内再生されてたフレーズ。

俺達は咲く場所を選べはしない

「レクイエム」 - the back horn

 

当時の自分は、世の中も学校も家族にさえも心を許せていなかったと思います。似た境遇の友達と管を巻くことしかできなかった。

 

荒れた家庭で心を抑圧され、終いには両親が離婚して貧しくなり、夢見る時期に我慢が常だったし、将来を考えることもなかった。

 

社会が差し伸べる手もあったかもしれないけど、その手を掴むと自分が惨めになるように感じて、ただ毎日を浪費していたように思います。

そもそも未来に希望を感じないから夢なんてないしやりたいこともない、延いては目の前の勉強にも関心がない。

 

自分の手が届かないところで自分の境遇が決まり、どんどん人生ハードモードになっていく感覚。選択肢のない分岐点。諦め。子どもの無力感。失敗作。

 

なかなか一言で言えないけど、これが私の一番悔しかったことです。

 

選んで不仲の両親の顔色を伺う生活を送っていないし、選んで困窮になっていない。それなのに気がつくと社会の最底辺にいる。みんながやるべきことをやってる間に自分は周回遅れ。取り戻す気力は湧かない。未来に希望が持てないから頑張る理由がない。

 

この経験はエンジンになり得るのか

そんなこんなで高校を卒業する頃には腹の中で化け物を飼ってました。「こんなのおかしくない!?俺は悪くない。世の中終わっている。俺を憐れんだ奴、いつか全員見下してやる。」

 

他責にしてメンタルのバランスを取っていたのでしょう。周囲に身の上話なんてしなかったし、きっと誰にも憐れまれてなかったと思います。実際には自分を客観視しては自己否定するループに陥っていました。卑屈になってました。

 

子どもは自分が生まれる場所を選べません。地域も家庭も何もかも。選んでないのにマイナススタート。

 

おかしくないですか!?なんかやりましたかね私たち。ただ生まれただけですよ。

 

ようやく人並みに生きられるようになって思うんです。やっぱりおかしかったよな、と。

 

頼れる大人

その後、一部の頼れる大人が寄り添ってくれました。支援や同情ではなく、あくまで対等な関係で話を聞いてくれた。そして、積もり積もった負の感情を世の中で戦うための武器に変換してくれました。

 

ドブ沼から這い上がった人間は強いもので、あの悔しさに比べると大抵のことは屁でもありません。とんでもない武器になりました。本当に本当に感謝しています。

 

こうした経験から、私は「マイナススタートの子どもにとっての頼れる大人でありたい」という馬鹿でかいエンジンを積んでいると思っています。

 

具体的にどうするのか

エンジンが見えました。次は方向性を決めたいです。この思いをどんな形で表現するのか。

 

それさえ決まれば後はやるだけです。火を吹かせましょうや。

助走として少しだけアクションをしているので、次回はそこから書いていきますね。

 

転職したことにも絡んできます。

 

話が現在に近づいてきた。これからが楽しみ。バイバイ。

たぎり

そろそろ桜が咲きますね。ナガです。

 

前回は"自分がどんなエンジン積んでるか分からない"という現況に触れました。

エンジン積んでる? - でるとこでる

 

今回は続きです。

 

だが、たぎりがない

オードリー若林さんと南海キャンディーズ山ちゃんをテーマにした「だが、情熱はある」まだ観られていません。

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何に情熱を注ぎたいか悩んでる私にぴったりな作品ではないかと思ったりもするんですが、映像作品にはなかなか手が伸びない。本ならすぐ読むんですけどもね。

 

最近はアンガールズさんのジャンピンをよく聴いていて、毎回めちゃめちゃ面白いんですが中でも繰り返し述べられる「たぎる」というワードが大好きです。

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冒頭の「だが、情熱はある」をイジって、俺たちをテーマに「だが、たぎりはある」を制作してくれって。

‎アンガールズのジャンピン[オールナイトニッポンPODCAST]:Apple Podcast内のep.86 3回目〜!からの、4・回・目〜!!

 

ちなみに先にこっち聴くとより楽しめる。

‎アンガールズのジャンピン[オールナイトニッポンPODCAST]:Apple Podcast内のep.85 数奇なポッドキャスト

 

めちゃめちゃ面白いからぜひ聴いてほしい。凄まじいセンス。超特大エンジン積んでるわ。芸人さんには尊敬しかない。

 

いずれにしても情熱、たぎり。この辺りが今の自分に必要なキーワードなことは間違いなさそうです。

 

たぎりたい。

だが、たぎりがない。

そんな状況を変えたい。

 

だが、手掛かりはある

もう4,5年も前になるでしょうか。

離婚という一大イベントに打ちひしがれ茫然自失だった私は、居た堪れなくなって横浜のバーへ飲みに繰り出していました。

 

そこで声をかけてくれた年配のお姉さんもといおばちゃんに連れられ千鳥足で向かったスナックで一曲あなたに贈ると歌ってくれました。半崎美子さんの明日へ向かう人という曲です。

 

リスペクトを込めて歌詞抜粋します。

悔し涙を流した時 心の奥が熱くなった

(中略)

前を向くそれだけでも辛いことが時にはある

それでも進むことを諦めないで

「明日へ向かう人」 半崎美子

 

以来この曲は定期的に聴きます。

当時の自分は色々と悔しかったんでしょうね。歌い始めの悔し涙あたりから既にブッ刺さりました。

 

先ほど触れたアンガールズさんのラジオ ジャンピンも必ず「悔しいねぇ...」というセリフから始まります。"悔しい"から"たぎり"に展開していくんですね。

 

悔しさというキーワード。

たぎりたかったら悔しさを探すといいのかもしれない。

 

田中さんは悔しさの大きさに比例してたぎってます。思い返すと私の離婚後のたぎり(というか反動?)も相当なものでした。明らかにえげつないエンジンを積んでた。

 

自分ではどうしようもない悔しさ

"悔しさ"を2種類に分けてみます。

①自分がコントロール可能な範囲内で起きる事象に対する悔しさ

②そうでないところで起きる悔しさ

 

①に対するたぎりは弱いです。なぜならすぐに改善できるから。

 

一方で②に対するたぎりは目を見張るものがあります。自分ではどうしようもないことだから、ほとんど理不尽に対する悔しさと言えます。

 

半崎さんが言うところの"悔し涙"は明らかに②の悔しさから来ています。そして離婚も同様でした。その時のたぎりはただただ自分を改善する方向に向けられました。このパワーはすごかった。そして充実していた。

 

改めて、これまでの人生を振り返って②の悔しさを拾い集める。前置きが長くなりましたが、これを手掛かりと呼んでいます。

 

仮の答えはもう見つけている

実は最初の記事を投稿する前に、ここまでの整理は出来ていました。

 

そして大たぎりできるんじゃないか、と思えるだけの悔しさをピックアップ完了しており、更にそれが消化不良のまま終わって燻り続けてることに気がつきます。

 

直近の転職はそれにリーチするためのものだったはずだったのに、日常生活の中で忘れかけていたのです。平和ボケしてた。

 

次回はその点にスポットライトをあてましょう。バイバイ。